胸から血を流し続ける彼。銀の弾丸は心臓こそ外れていたものの、それでも確実に彼から血を奪っていった。現に立っているだけでごぽり、と嫌な音を立てて溢れる赤。
銃口を向けられる事よりも狙われた自分の命よりも、彼の事だけが心配だった。
「動かないで下さい…傷に障ります」
「…アーウィン、どうして殺したんだ」
身体は重度なほどに傷つき命の危機に曝されても凛と真っ直ぐに私を見つめる彼に眩さと、
――疎ましさを感じた。
「どうして貴方は自分を殺そうとした者すら庇おうとするんですか?貴方を守る為に連中を殺した私をどうして非難するんですか!?私が…っ」
―――ヒトとは異なるイキモノ、冥使だから。
続きを口にする事は出来なかった。もしも彼から拒絶の言葉をその口から紡がれたら、その先は考えたくもない。
紅い眼で睨み付けていればそっと銀の銃は下ろされた。草や落ちた枝を踏む音、徐々に近付く血の匂い。もっと近付いてほしいと思った、その馨しい血を飲む為に。近付かないで欲しいとも思った、彼を殺さない為に。
「…確かに、偽善者なのかもな。俺を守ってくれたお前を冥使という理由殺そうとしてるんだから」
「………」
「僕は、出来ればヒトと冥使は共存して欲しかった…。ごめんな、アーウィン。僕の偽善のせいでお前を振り回して…」
私の頬に手を添えて悲しそうに笑う彼は、とても偽善などには見えなかった。冥使だが、私もいつかフレデリックがその理想が叶うところを見たかった。実際に彼は下級冥使は祓うしか方法がないが、自我のある上級冥使にはヒトを堕とさないように説得してると以前屋敷の中で聞いた事がある。もしその理想が叶うなら、私は再びフレデリックの住むあの屋敷へ帰れて今まで通り彼と彼女と子供と人間のように生活できたのだろうか?
「フレデ」
「…っ!!」
「!」
手にしていた銃を落とし大量に吐かれた血は私の服を紅に染める。その身体は立つ事すらままならず崩れ落ちるのを両腕で抱き止める。…が、足に力が入らないのか腕からもこぼれ落ちそうになる身体。
浅く繰り返す呼吸も、青ざめていく顔も、私より遥かに高い筈の体温が徐々に下がっていく事も。
全てがある事象を示すのがどうしようもなく悲しくて、彼の身体を抱き締めながら座り込んだ。立っているよりかは幾分か楽だろう。
どうして私は無力なんだ!彼の力になる事も出来ず、ただ最後の瞬間を見るしか出来ない。もし私が央魔だったら、その強力な奇跡の力で彼を救えたんだろうか。昔、彼を死から救い出した央魔のように。冥使の力なんて…冥使の……。
「…バカな事、考えるなよ…」
「っ、フレディ…」
「僕、は…堕ちるわけには、いかない…」
「でも!」
「……人間のまま、死なせてほしい。自我を無くして血を求めて彷徨う姿なんてお前に見せたくないんだ」
だから冥使の血は飲まない、と彼は拒み弱々しく頭を左右振り私の考えを読んだように否定されてしまった。だからって諦める訳にはいかない。彼がいない未来に何の意味があるだろうか。
「でも私は!貴方に生きていて欲しいんです…貴方がいなきゃ、私は……」
「アーウィン、僕は、お前の太陽だろう?これから暗い世界で生きるお前の道を照らしていたいんだ…」
静かに、諭すような声。木々のざわめきも風の音も、小鳥達の囀りも全てが消えた錯覚さえ感じる程に彼の声しか聞こえなかった。
私の太陽。幼い私を助けて共に暮らし、冥使へと覚醒した今でも「村」の掟に反して殺さずに受け入れてくれる、私の唯一無二でかけがえのないヒト。
そんな太陽が自我を忘れてただ血を食す為に人間を襲う姿を想像して。愚かな考えを浮かべてしまった自分に吐き気がした。彼を冥使に堕とせば狩られない限り一生彼といられるだろう。その代わりにあの笑顔も優しさも全て失われて、フレデリックの中から私という存在は消えてしまうのだ。私を認識してくれないのならそれはいないのと同じだから。
たとえ傍にいたとしても。
「……逝かないで下さい。私を置いて、逝かないで。貴方のいない未来なんて…」
「……ごめんな、アーウィン」
弱々しく伸ばされた手で頭を撫でられる。小さい頃からされていた心地良い掌の温もりも、感触も。
今は目頭を熱くさせる要因にしかならなかった。彼を失う事が悲しくて辛くて寂しくて。抱き締める手に流れる彼の血が止まらなくて――
―――血?
「アーウィン」
名前を呼ばれた時に思わずビクッと肩を震わせた。悲しい筈なのに、苦しい筈なのに、これから彼を失うのが辛い筈なのに!
それなのに、そんな大事な人間らしい感情を凌駕する程に沸き上がる負の食欲。冥使になった時から常に加減して満たされなかった食欲は止まる事を知らない。
伸ばしそうになる舌を懸命に抑え、彼から顔を逸らした。少しでも衝動を抑える為に。
「…食べても、構わない」
「……え?」
幻聴かと思い、彼に視線を向けると青白い顔色で緩慢に笑みを作っていた。死の間際にあっても、なんて魅力的で美味しそうな…大切なヒト。
貫いて貪りたい気持ちと、少しでも長く生かして共にいたい気持ち。相反する二つの心を察したように私の頭を撫でていた手を頬へ滑らせた。
「お腹が減っただろう?最後の食事だ」
なんて甘美な誘惑。思わず喉を上下させて口腔内に溢れる唾液を飲み下す。それでも沸き上がる食欲は止まる事を知らない。
無理矢理理性で抑えつける食欲を嘲笑うように無意識のうちに思わず舌舐めずりをしてしまう。
理性が勝ったところで傷の治療すら出来ず、ただ静かに死ぬのを見守るだけしか出来ない。それに人間性のある劣位性質は冥使になった時に…その前からなくなっていたのだ。そしたら結果は明らかで。
それでも食す事を躊躇う私に彼は小さく笑った。普段からは考えられない程とても弱々しい笑みで。
「…アーウィン、痛いんだ」
―だから、殺してくれ。
私の躊躇いも戸惑いも、全てを断ち切る言葉。もう、抗えなかった。
ただ、食欲の為ではなくせめて安らかな死を与える為に冥使の証である長い舌を、伸ばした。
「…すぐ、終わりますよ」
にこりと笑って頷く彼。首に腕を回されると、呼吸の為に薄く開いた唇に舌をねじ込む。舌の表面からも感じれる程に馨しく魅力的な血。瞼を開き見下ろせば、静かに瞼を閉ざして死を待つ彼は穏やかな表情をしていて。泣きたくなる。複雑な表情で眺めていれば彼が片目を上げて早く、と促すように弱々しい腕に僅かに力が込められる。
私は静かに瞼を下ろして、一つ深呼吸すると口腔内で彷徨う舌を白いノドへと深く、深く、突き刺した。痛みを与えないように一気に血を啜る。
瞬間に彼と過ごした日々が脳内に流れる。両親を失ったあの日の惨劇も、その後の温かく幸せな日々も。
先程までは美味しかった血がほろ苦く感じたのは、私の頬に伝う熱い滴の所為かもしれない。
腕の中で死を享受する彼は、口を塞がれて喋る事なんて出来ない筈なのに。聞こえた気が、した。
「―たとえ冥使でも。お前は僕の、最高の友人だ」
何か言葉を返そうと微かに舌を動かした刹那。
首に回された腕が静かに地面に落ちた。
瞬時に血にまみれた舌を引っ込めて彼を見下ろせば、身体全体が弛緩し顔色は青白く変色している。左胸に手を当てても鼓動は感じられず―。
「――フレッド…私にとって貴方は。唯一無二の大切な人、でしたよ」
小さく呟いた言葉は亡骸に届いたのかも分からぬまま、白い霧の中に消えた。
彼を失い、どうやって生きていけばいいか分からず、彼の死体を抱いたまま途方に暮れる私の耳に草木を踏む複数の足跡が聞こえる。
気付けばすっかり辺りは闇に覆われていた。
目を凝らさずとも分かる、森の中に灯る幾つもの火。松明を持った人間が、「村」の人間が帰らない長を捜しに来たのだ。もう二度と喋る事はないフレッドを―。
冥使は夜目が利く。遥か先にいる人間達を見れば、彼を探す群れの中にフレッドの伴侶である彼女を見つけた。心配そうな表情で彼を探す姿。
刹那。彼女が此方を見る。
距離は離れていて灯りなんて何もない森の中で彼女は確かに私を見て、こちらに近付く。迷いなど微塵もない姿。闇の中で直感的に彼が此処にいる事を感じとっているようだった。彼女は徐に腰のホルスターに触れ、その手には銀色の銃が握られていた。このまま此処に居続ければきっと自分は狩られるだろう。
「……さよなら、フレデリック」
腕の中の物言わぬ彼の額にそっと唇を落として、優しく木に背をもたれかけさせるように座らせる。静かに、安らかな表情で永久の眠りに就く彼。頬からは完全に血色を失っていたが、その幼く見える寝顔は変わっていない。
ずっとその表情を見ていたかった。ずっとその身体を抱き締めていたかったけれど、彼女と子供の事を考えれば生死も分からず行方不明になるよりかは遺体に対面させた方がいいだろう。
もう一度だけ、さよなら、と小さく紡ぎ頬を一撫ですると霧化して彼から遠ざかった。
随分と離れて木の枝の上に立つと同時に彼女の悲鳴が聞こえる。仲間の死体を、彼の遺体を見たんだろう。その声に反応するように彼女の元に駆け付ける「村」の仲間達。
静かな森に響き渡る程、泣きながら彼の名前を呼ぶ彼女の声に、私は再び目頭が熱くなった気がして、それを誤魔化す為にゆっくりと瞼を閉じた。
To be continued...