フレッドとジョージにおやすみを言って自分のベッドに潜ったあと、談話室での出来事を振り返るにつれ、大変なことになったんじゃないかと思えてきた。ジョージはたしかに、あの場でフレッドに言う気はないように見えたけれど、今後も秘密にしておいてくれる保証はどこにもない。それどころか、私と談話室の前で別れたすぐ後に言ってしまっていたら?2人が一緒にいる時間なんていくらでもあって、人の口に戸は立てられない。16歳の私にとって、小説を書いていることを周りに知られるのは大問題に思えた。
心配事があると眠れなくなるのはいつものことで、ようやく記憶が途絶えたのは今後起こり得る最悪の事態のシミュレーションをし尽くした朝3時頃だった。夢を見た感覚はないけれど、精神的に眠った気はしない。部屋を見回すと既に大広間に行ったルームメイトもいるようで、いくつかのベッドは空っぽになっている。寝不足のうえ朝ご飯を食べ損ねることは避けたい。若干朦朧とする意識の中、手早く身支度をして部屋を出た。
テーブルにつきパンをかじりつつさりげなく辺りを見渡す。そう苦労もせず、ひとつ隣の列のテーブルに、フレッドにリーにアンジェリーナに…いつものご一行で固まって座っているジョージを見つけた。所謂イケてるグループらしく、朝からそれなりの活気でお喋りを楽しんでいるようだ。いつもなら気にも留めない光景も、昨夜あんなことがあったからしばらく目が離せなくなる。私のことを言いふらして笑い草にしているのかも、なんて自意識過剰な被害妄想を打ち消そうとかぼちゃジュースをあおったら、口から溢れて制服を汚してしまった。寝不足のせいで平衡感覚と口の容量の感覚が鈍ったせいだ。普段からドジだとか、断じてそういうことではない。
「もっと焦りなさいよ」
働かない頭で悠長に言い訳をこねくり回している私に、向かいに座ったマリアが呆れ顔で言った。
「昨晩、あまり眠れなくてね」
「そんな顔してるわ」
白いシャツにも染みができていると襟元を指差されて、仕方なく染み抜きの呪文を唱える。特に優秀でもないので、それなりに集中力を費やしやっと染みを消し終えて顔を上げると、あのご一行が席を立つところだった。
「モーニン」
目が合ったジョージにテーブル2つ越しに挨拶されて、それにつられた他の面々からも声をかけられる。その表情に嘲りの片鱗はないか。さっきの被害妄想が生き返ってきて、返事の一言すらどもった。大広間を出ていく一行の後ろ姿を見ながらマリアが言う。
「今の何? あんな距離からわざわざ挨拶するような仲だった?」
「わかんない。目が合ったからだと思う…」
「…え!? ウィーズリーの双子とアンタがまさか」
マリアは冷静に見えてミーハーな話が結構好きだ。いつも一緒にいるわけではないけれど、気が合うし話しやすくて良い友達。ジョージが私に挨拶してきたのは十中八九、昨夜の出来事が関係していると思うものの、マリアにも小説のことは話していないから、あらぬ疑いに対するうまい説明が思いつかない。
たしかにアンタ、たまにちょっかい出されてたよね。なんて勝手に話を展開させていくマリアに釘を刺す。
「そういうのじゃないよ。変な噂が広まって勘違い女とか言われたら泣くからね。お願い」
意外とミーハーなマリアじゃなくたって私たちは間違いなく、自分にはない艶や逞しさに惹かれ合うお年頃だ。好きな人ができて、その人が気持ちに応えてくれることを想像したら、それは本当に素敵なことだ。自分にそんな日がすぐにやってくるとは、まだ思えないだけで。
私の口ぶりから期待するような面白い話ではないことを察したのか、マリアは最近気になっているという男子の話をし始めた。光を蓄えた目とほのかに色づいた頬がかわいい。
彼女もまた、恋に憧れる女の子の1人だ。
魔法史の授業中襲ってくる眠気に耐えながら、私の視線は黒板と斜め前の背中を行ったり来たりしていた。赤毛の長髪は完全に船を漕いでいる。昨夜見たことをフレッドに言ったのか、言っていないのか、本当に誰にも口外しないでいてくれるのか。それをどうにか確認したい気持ちに駆られていた。昨日のジョージの優しさは単なる気まぐれだったのではないかという疑いが捨てきれない。静かな夜に暖炉の火を前にして気持ちが柔らかくなる感覚を、誰もが経験したことがあると思う。
周りを見渡すとほとんどの生徒が夢の世界に旅立っている。思い立った私は羊皮紙を半分に破り、そこに文字を書きなぐり、そして丸めてジョージの机に放り投げた。
かすかな空気の震えを感じとったのか、ジョージは目を覚まして羊皮紙を開いた。
“誰かに言った?”
紙を持ったまま数秒固まったジョージを見て、まずいと思った。自分の名前を書くのを忘れた。もしフレッドやリーからの手紙と勘違いして、これ何のこと?なんて本人に確認されてしまったら…。
緊張しながら背中を見ていると、ジョージは同じ羊皮紙に淀みなく何かを書いて、二つ折りにして後ろ手に私に渡してきた。差出人は私だとわかってもらえたようで安堵する。先生が手元を見ているうちに、少し腰を浮かせて差し出された羊皮紙を受けとった。
そこには“NO”の一言。意外と丸文字だ。紙のしわを手で雑に伸ばしてさらに書く。
“本当に?これからも?しつこくてごめん”
斜め前の席からさっきと同じように手が伸びていて、口のようにパクパクさせている。幸いとばかりにその掌に羊皮紙を乗せた。
“信用ないな”
再び寄越された羊皮紙にはそう書いてあった。ずるい答えだ。YESともNOとも言っていない。でもとりあえず、今のところ誰にも言いふらしていないことは“NO”の文字ではっきりした。もちろん、ジョージが嘘をついていなければの話だけれど。一旦インスタントな安心感を得た私は、先生の声を子守歌に意識を手放した。
目を覚ましたときには教室に誰もいなかった。それもそのはず、もうすぐ夕食の時間になろうというところだ。魔法史の教科書と例の鍵付きのノートを抱えて大広間へ向かい、朝ご飯を食べたのと同じ席でマリアと夜ご飯を食べた。
ジョージは、弟のロンを含むあの3人組の近くにフレッドと一緒に座っていた。
放課後の間ずっと寝こけていたとはいえ、今日は早めにベッドに入った方がよさそうだ。まだ頭がなんとなくぼんやりしている。今日は就寝間際の誰もいない談話室での執筆は諦めて、今から少しだけ書き進めよう。夕食後の今は談話室が一番混み合う時間帯だ。大広間を出て魔法史の教科書を持ったまま、寮には戻らず校内の人気のない場所を探して歩いた。月明りだけが射すしんとした廊下のベンチに腰掛け、ノートを開いた。
澄んだ空気の中、昨日書いたページを軽く読み返す。ジョージに見られたのはおそらくここからここまで…。また羞恥心が沸き上がってきて、この部分を書き直そうかとさえ思う。見開き1ページに大きくバツを書こうと線を引いたとき、突然現れた手に羽ペンを取り上げられて悲鳴をあげた。
「なんで消す?」
「またジョージ…」
ジョージは「またとはなんだ、迷惑そうに」とか何とか言いながら、私の座っているベンチの反対の端に腰を下ろした。驚きで動悸が収まらない胸をさすりながら尋ねる。
「どうしてこんなところにいるの?」
「校内のことは何でもお見通しだ」
また答えになっているようななっていないような返答をされた。適当に相槌を打つ。さっき悲鳴をあげたときにやたらと響いたのが気になって、声が自然と小さくなる。
「なんで魔法史の教科書なんか持ってるんだ?」
2人の間に置いてある私の教科書を見て、ジョージが言った。私につられたのか小声になっている。
「夕食の時間までずっと教室で寝ていたの。起きてそのまま大広間でご飯を食べて、今」
ジョージが大きな目を見開いた。
「マジかよ。授業が終わったとき、よく寝てるなとは思ったけど」
「気づいてたんなら起こしてくれても…」
「だって君、不躾な手紙を回してきたと思ったら、自分の用件が済んだあと即寝ただろ」
私の明確な八つ当たりに動じずジョージは答えた。台詞だけなら拗ねた子供のようだけれど、その顔は片方の眉が上がって挑発的だ。
そうだ。ジョージがここにいるならその話をするべきだ。
口外しないということについてもう一度言質を取ろうと言葉を発しかけたとき、耳慣れない湿った声が聴こえて本能的に体が硬直する。首を伸ばして声がした方をそっと見やると、廊下の少し奥で、同じ学年のスリザリンの男女がキスをしながら絡み合っているではないか。
恐る恐るジョージの反応を伺うと「ワオ」とか言いながらも全然驚いている様子はなく、半笑いで2人を凝視している。私の方はこういう場面を現実に見るのは初めてで、いたたまれない気持ちになる。何がいたたまれないって、鏡を見なくてもわかる。絶対に顔が赤くなっていることだ。
途切れ途切れに聴こえる声と吐息にどうしてもその場にいられなくなって、音を立ててしまうのも構わずノートを閉じ教科書を持って立ち上がる。ジョージのことなど気にせずどんどん脚を動かして階段を降りる中、頭には今朝マリアとの会話で考えたことが浮かんでくる。恋に憧れる年頃?好きな人に好きになってもらえたら?そんな簡単な話じゃないんだ。私がさっきあの場から逃げた理由も、ただ恥ずかしいからってだけじゃない。怖いと思った。あの男の子の欲も、それを受けとめる女の子も、それを平気な顔で見ているジョージのことも。大人になるって、ああいうことなの?
階段を降り切っても考えはまとまらない。追いついたジョージに腕を掴まれて仕方なく脚を止める。
「おい、どうしたっていうんだよ」
泣いていると思われるのは嫌で、ジョージの目を見上げて首を振る。ジョージは心底驚いた顔をしている。私が逃げたことになのか、私が泣いていないことになのかは分からない。
「体調悪い?」
首を振る。
「男の方が好きな奴だった?」
首を振る。同じ学年ということしか知らない子だ。
ジョージはひとつ息を吐いて続けた。
「俺に、何かされると思った?」
首を振る。言われてみると、そこには結びつかなかったことが不思議に思えて少し頭が冷えた。そう思われても仕方ない状況だ。
「そんなんじゃないよ」
私の声色から落ち着いたのを察したのか、ジョージは私の腕から手を離した。2人並んで寮の方へゆっくりと歩き出す。一歩、また一歩。
ジョージは私が話し出すのを待っているんだろう。左の上の方から視線を痛いほど感じるけれど、こんな感情は相手が誰であっても気軽に話せることじゃない。怖くて、不安で、やっぱり恥ずかしい。私なんかがどれだけ騒いだところで変わらず輝き続ける月の明りと、ヒタヒタと響く2人分の足音だけが私たちを取り巻く。
「ウサちゃん的には?」
このシリアスな空気に突然放り込まれた低音の「ウサちゃん」という響きに一瞬混乱、さらに2、3歩進んだところで思考が追いついて吹きだす。ジョージは、私の物語で主役を張っているあのウサギだったらどう語るか、そう訊いているんだ。広い廊下をゆっくりゆっくり進んでいるのを良いことに、私は目を閉じてふわふわした茶色い毛を想像する。たっぷり考えて、口を開く。
「怖くなったの」
「自分が大人になりかけていることを、さっきのその…キス、とかを見て急に実感したんだ」
「男なのか女なのか、その分かれ道を進んだら、もう2度と戻ってこられないって」
「漠然と恋愛って素敵なものだと思っていたけど、私はまだその準備ができてないことにも気が付いた」
伝わるかな。子供っぽいと思われるだろうか。でもそんなこと今は重要じゃないように思える。今までならノートの上だけに吐き出していたような気持ちを現実世界に送り出すと、胸のもやが薄くなる感覚がした。
「急に逃げたりしてごめんなさい」
左側を見上げたらジョージは頷いて、昨夜と同じように私の背中をポンポンと2回叩いた。
「形を変えないものもあるさ。例えば“健全な友情”とか?」
昨夜私がフレッドへの反論に使ったフレーズを強調して、ジョージはおどけながら言った。
「そうだね。ジョージには小説のこともバレちゃったし、恥ずかしい気持ちも話しちゃったし、これからも仲良くしてくれなきゃ困る」
言いながらまた少し恥ずかしくなって、肘でジョージの脇腹を狙った。彼曰く「全然痛くない」らしい。
夜に会うジョージって不思議だ。昼間は学校の有名人らしく喧騒の中心にいるけれど、今は話下手な私の横を静かに歩いている。これを友情だと思ってくれているみたいだし、意外と義理堅い人だ。せっかく受けた優しさを仇で返すようなことはしたくない。もうこれ以上、私の秘密を守ってくれるかどうか疑うのはやめようと思った。
それからというもの数日に1度、夕食後から就寝までの自由時間をジョージと過ごすようになった。私がどれだけ人気のない場所にいても、彼はどこからともなく現れるのだ。そのカラクリが「忍びの地図」という怪しげな道具にあることを知るのは、「キス目撃事件」の夜から何か月も経った頃だった。
(続く)
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