背中にタカヤの温度を感じながら、ハルナの肩先を流れる風に自分の気持ちがこぼれ落ちていくように感じる。
墓の前で泣いている父親。
こんなに長い時間、父親の姿を見つめることができるのなんて初めてかもしれない。
自分は立ち尽くしながら、小さく息をして父のことを見ている。
母親のために父が泣くのを見れたのが、きっと自分は嬉しいのだと感じる。
手も足も、心も堅くなって痺れたようだけど、この光景を記憶に焼き付けたいと思っているのだから。
どれくらい時間は経ったのだろうか。父親が立ち上がった。
そして振り返って、歩き出した。
自分の方に向かって近づいてくる。
息が止まりそうだ。
それでも、ハルナはジッとしていた。息をひそめて、父親の足下ばかり見つめた。
上等のサンダルについた宝石と、ごつごつした右足の親指。そんなものがやたらと記憶に残っている。
それは、自分のすぐ側まで来て、そして通り過ぎた。
ハルナは振り返った。
丸くなった男の背中が、遠ざかっていく様を眺めた。
その日は、日が暮れるまで、母の墓石の側に座っていた。
しかし、とうとう、太陽が地平線に沈み込み、水色の空に星が光ったとき、彼は突然、奮い立ったかのように叫び声を一つあげると、墓石に握り拳ほどの石をたたきつけてその場を去った。
その後、墓石を見に行ったことはない。
「着いたぜ、可愛いタカヤちゃん」
「殺す」
町外れの小さな小屋の横でハルナは馬を止めた。
まず自分が馬から降りると、タカヤを抱きとめるように両手を伸ばす。
タカヤはギリ、と歯をかみ合わせながら大変不服そうにその腕に身体を傾けた。
2016-6-1 17:56
「わ、悪かったよ。つか、この馬、人の言葉わかるの?」
「んなこともないと思うけど、お前がオレに嫌なこと言ってる雰囲気はわかるんだろう。オレの馬はカシコイからな」
「なんでここでドヤ顔なんだよ」
チッとタカヤは舌打ちしてから、それでも馬の脇腹のあたりを手でポンポンと撫でた。
「まあ、とにかくさ。ファラオのこと、ちょっと知りたくなったわけよ。どんな感じかだけでも教えてくんない?」
不意にハルナの目がめんどくさそうなものに変わった。軽く息を吐いてから、下唇をちょっと噛む。
「あんま、記憶ねえんだけど…」
ハルナの口からすんなりとは言葉が出ない。
「まあ、あえて黙る必要もねえから言うけど。アイツなあ。母さんが獅子に食い殺されたあと、小さな墓を建てて、その前で泣いてたな。けど、そのあと、オレは幽閉された。ちゃんと言葉を交わしたのは、初めて戦に出て、勝利報告をしたときだな。『よくやった』って。それだけ」
馬の尾がユラユラと揺れる。
「ああ…そう、なんだ」
妙な間をつくってしまった後のタカヤの言葉は、こんなものだった。
「第一皇子と話が出来たらもうちょっと情報が手に入るかも知れねえよ?」
薄く笑ってハルナが付け足す。
「いいよ、もう」
「んじゃ、町に入ってみようぜ。オレ、町にも意外と知り合いいるんだわ」
「え?」
パカパカッとまた馬が走り出した。
「馬にもさ、そろそろ水飲ませてやりたいし」
「あの……ごめん」
「は? なにが?」
声色がやや強めだったので、タカヤはドキリとした。
「いや、あの…」
「べつに謝られることされてないけど?」
「う、うん。まあ、そう、だな」
しばらく、蹄の音だけがする。
「…同情とかしちゃってんの? いつも生意気なタカヤちゃんが?」
「はあ? なにそれ、キモい」
「『あの…ごめん』だって」
「なんだよ、バカにすんなよ!」
ハルナが馬を走らせたまま振り返った。
その顔がいつのまにか笑っている。
それが一瞬、とても優しげに見えて、不覚にもタカヤの胸になにかが広がった。
「タカヤのくせに、気持ちわりい。オレ、引いちゃうなぁ」
「い、言ってることと、表情全然違えんだけど」
声を出してハルナは笑うと、前を向き直ってさらに馬のスピードを上げた。
2016-6-1 17:56
「ねえ、モトキさん」
「あ?」
今度は反応が返ってきた。
「アンタの父親ってファラオなんでしょ?」
「ああ」
「ファラオって、どんな人? どうやってファラオになれたの?」
「知らねーよ、オレが生まれる前からファラオなんだから」
「……その人は、生まれた時からファラオだったの?」
「お前、いきなりどうしたんだよ? オレ、そういうことよくわかんねーから。どうせ、親父の親父にファラオになれって力を譲り受けたんだろ? 今の親父が、第一皇子にそうしようとしているように」
「それって、人の意思で決めてんじゃねえかよ!」
「ああ?」
急に不機嫌な声を出されて、ハルナ皇子はむしろ困ってうろたえている。
馬はスピードを少し落とした。
「ラーが決めるんじゃないのかよ!!」
「ら、らー?」
「太陽神!! こんくらいは知らないとはいわせねえぞ、ポンコツっ」
ヒヒン! と、馬の方が非難するように、いいタイミングで鳴いた。
「あ、ごめん」
なんとなく、タカヤが馬に謝る。
ハルナは馬を止めて、タカヤの方に振り返った。
「どうしたってんだよ。もうすぐ町にも入ろうかって思ってるのに…」
「いや、急に…ファラオのことが気になったから」
「ファラオって、オレ達皇子でもそうそう会える存在じゃないからさ。よくわかんねえんだって。なんでも神官に囲まれて、神からの言葉聞くらしいぜ。だから、ファラオが第一皇子を次のファラオにするって言えば、それは神様がそうしろって言ったからなんだって」
「神官に囲まれてぇ?」
「おお。…おっ、そういやお前もニシウラじゃ神官だったんだよな。じゃあ、なにか、こんな状況がファラオってヤツなんだな!」
フニャっとハルナが嬉しそうに笑った。
「どこまで脳みそ天気に出来上がってんだ、お前は!!!」
ヒヒイン!
もう一度、馬が鳴いた。
2016-6-1 17:54
ファラオ
タカヤはなぜか唇に乾いた笑みを浮かべた。
(こんな王宮でクズ扱いされている人の背中で、なに思い出してんだか)
けれども、その記憶はどんどんその色合いを強めてきた。
自分の中で眠っていたものが目覚め始めた感じだ。
「ファラオはな」
父親の声が頭の中で続く。
「神から授かった力で民を統べるんだ。我々、ニシウラは、代々続く王家の血を引く者が王になる。けれど、ムサシノは、全てを統べる神、太陽神ラーから地上を治める力をいただいたとしているんだ」
「地上を治めるって、地上全部ってこと?」
「そう言っている」
「え…? そんな。…どうしてラーから力を授かったと証明できるの!?」
父は息子の不満そうな瞳を見つめ返して静かに言った。
「知らん…。まあ、そんな国もあるということだ。ハハッ、恐ろしいな」
そう父が肩をすくめて笑ったとき、自分たちにとってムサシノはまだ遠い遠い国な気がしていた。
あれは…あれは自分がいくつの頃のことだったのだろう。
2016-6-1 17:53
「ねえ…さっきの人、どんな人なの?」
「ん? ああ、タロスのこと?」
ハルナの背中は大きくて気持ちいい。
スピードを上げた馬の背に乗っている今は、頼れるものもそれだけだ。
しっかりとそれにつかまりつつ、タカヤは風の音を聞く。
「…タロス」
「オレの愛馬の管理係だ。アイツがいてくれて本当に助かってんだよ。コイツも、戦から帰ってずいぶんになるから、身体がなまらないようによく世話してくれてるんだ。城のどんな馬係よりアイツがいい」
「あの人、すごいんだね」
「おお」
ハルナは得意げに答える。
手綱を握って前を向いている彼の顔は見えないが、声がすべてを語っている。
「あの人、ニシウラのこと知ってるんだね」
だが、今度は答えが返ってこなかった。
「モトキさん?」
タカヤは声をかけ直したが、それでも返事はなかった。
なんとなく腑に落ちないが、馬の軽快な蹄の音を聞いていると、深く問い詰める気にもならなくなる。
風の勢いが強くて、よく聞こえなかったのかもしれない。
答えるのがめんどくさかったのかもしれない。
タカヤの若い心は、すぐに自分とハルナ、そして二人が馬に乗っている姿を映し出している地面の影に移ってしまう。
地面の上で斜めにひしゃげた影。土や石の上を流れていく美しい影。
なんて綺麗な馬なんだろう。
ああ、この人は、こんなに立派な馬に乗って地を蹴っていたのか。
ジリジリと熱い太陽に背中を照らされ、ハルナの背中と頭を見つめていると、言葉には言い表せない妙な高揚感がわいてくる。
タカヤの脳裏に一つの記憶がよぎった。
かつて、ニシウラの神殿で父親から聞いた言葉。
「大きな勢力を持ち出したムサシノ国では、国王のことを特別な言葉で呼ぶらしい」
「特別な言葉?」
「ファラオ」
2016-6-1 16:24